清らかな泉

一、公園の面積 趵突泉公園(趵突泉群)の総面積は10.6ヘクタールで、五竜潭公園(五竜潭泉群)の総面積は7.6ヘクタールで、環城公園(黒虎泉群)の総面積は26.3ヘクタールである。
二、公園建設の歴史
泉水は済南の独特な地質遺跡景観である。済南市政府は長年にわたって、泉水公園の建設を重視し、泉水の自然景観と人文景観を展示する趵突泉公園、五竜潭公園、環城公園という三大園林景区を形成した。2007年、全国運動会を迎えるために「護河城の渡航プロジェクト」を実施し、趵突泉?黒虎泉?五竜潭という三大泉群を遊覧船で繋がり、船一隻で護河城を循環で鑑賞する泉水遊覧景観を形成した。それと同時に、保護と発展の政策を同時に重視し、「増雨、補源、置采、控流、節水」という十字方針に従う。今まで、趵突泉をはじめとする四大泉群は、十年も湧き続いている。それは、20世紀70年代の湧水停止以来、最長の湧出記録を更新した。
趵突泉公園の建設状況:趵突泉公園は1956年に建て始め、1964年、1984年、1994年、1999年という四回の拡張工事によって、面積は10.6ヘクタールに拡大された。主要な観光スポットは、趵突泉を主とする27か所もの自然泉水景観と濼源堂、観瀾亭、娥英祠、望鶴亭、尚志堂、白雪楼、滄園、万竹園、李清照記念堂、濼源民俗文化街、五三記念園など十か所余りの人文歴史景観がある。
三、泉水の成因と人文歴史
泉水の成因:趵突泉を代表とする済南泉群は、わが中国、乃至全世界でもまれに見られる珍しい特大石灰岩カルスト泉群である。それは、済南の独特な地質構造と深く関わっている。済南の地勢は南高北低型で、南部は水に溶けやすい通過性の石灰岩帯水層で、北部は不透過性の火成岩で、旧市街は両者の接触地帯にある。地下水が勢いに乗ず、南から北へ流れる時、旧市街の北部にある不透水の火成岩に阻まれて、圧力の下で自然に湧き出し、泉水が済南に集まる奇観となったのである。最新の統計によると、済南の2.6平方キロメートルにわたる旧市街には、天然の泉池が136か所もあり、そのうち、趵突泉群?五竜潭泉群?黒虎泉群?真珠泉群などの四大泉群が名高い。一つの都市に名泉が百余りか所も分布しているのは、国内外にしても珍しいので、済南は泉城と呼ばれ、また、「泉水甲天下」「家家泉水、戸戸垂楊」と誉め称え、国内外から観光客が殺到する。
人文歴史:泉は済南人の根と魂である。昔から、泉城の人々は世世代代泉に臨んで生きてきたのである。泉水は済南の政治?経済?文化発展?独特な風土に深く関わり、市民の日常生活で不可欠な要素になっている。済南の泉に関する文字記載は3500年前に遡れる。泉にまつわる歴史事件は2700年前に遡れる。『春秋』の記載では、魯桓公694年、魯国の君主桓公と斉国の君主襄公が「濼に於いて會う」そうである。「濼」は現在の趵突泉である。それから、泉水に関する文献記載が大量に現れ、泉にまつわる伝説や物語も広く伝わっている。例えば、舜と舜泉の伝説、郦道元『水経注』における済南の泉水に関する記載、秦琼と五竜潭の物語、李清照と漱玉泉、渓亭泉、関勝と馬跑泉など、いずれの泉はそれなりの伝説がある。
歴史上、文人が済南泉水を称賛する作品も数えきれないほど多い。例えば、宋代の曾鞏?蘇軾、金代の元好問、元代のの趙孟頫、明代の王守仁、清代の王士禎?蒲松齢、何紹基などは、泉を詠む詩文が残されていた。康煕、乾隆皇帝がともに、趵突泉のそばで泉を褒め称え、詩を詠んだり、石に刻んだりしたことがある。当代の文豪である郭沫若、老舎は賛美の詩文や、碑文?石刻などが多く残されている。統計によると、公園全体では、古代詩文の碑文や石刻、対聯、扁額などの書道作品が200枚近くも現存されている。その中で、最も有名なのは、双御碑、娥英祠碑壁、李清照碑廊である。碑文は生き生きと真に迫って、書道も意気揚々としている。済南の泉水の濃厚な文化を体現するだけではなく、趵突泉その当時の様子をありのままに記録しているので、芸術上?史料上?鑑賞上価値が高く、歴史文化名城である済南に濃厚な文化的要素を添えるのである。
四、主要な植物種類及び保護等級
趵突泉、五竜潭、環城公園の中では、泉水が多く、泉水の温度が摂氏18度ぐらいに保持し、冬暖かく夏涼しい気候環境になる。竹類、芭蕉などの南部の樹種が成功に移植され、さまざまな古木?名木もあって、観賞?科学?研究上の価値がある。
古木?名木は生きている文物で、自然と歴史が残してくれた貴重な財産であり、公園の貴重な歴史文化の遺跡と観光資源でもある。
趵突泉公園には、登録されている古木が17本ある。主に、公園の南西角の万竹園にある。全部で12本、他の5本は公園建設の過程で保存された古木である。
趵突泉公園の南西隅にある万竹園は、元代に建て始め、民国初期、北洋軍閥、山東督軍である張懐芝に奪われ、私家庭園になった。1984年、造園計画で公園となった。庭園には、古木が高く聳え、青竹が密生して藪になる。今では、古木?名木が12本あり、年齢が130歳以上の千頭柏
が7本、140歳の側柏が1本、130歳の円柏が2本、130歳の糸綿木が1本、140歳のザクロが1本ある。
趵突泉北側にある三大宮殿は、悠久な歴史を持って、市重点文物保護単位に指定された。一番北のほうにある三聖殿の東側には、320歳を超えた国槐があり、高さが16メートル、胸囲が173センチ、胸徑が55センチ、基徑が60センチ、地表囲徑が65センチである。樹冠は鵬の如く南北に伸びている。
滄園には、130歳の油松が1本あり、高さが3.5メートル、胸囲が100センチ、胸徑が31センチ、基徑が31センチである。樹冠が北西に伸びていて、景石で支えられている。
公園の第一展示室の西側に1本の榔楡がある。樹齢が110歳、高さが12メートル、基徑が52センチである。北のトイレの東側に大葉女貞があり、樹齢が110歳、高さが8メートル、基徑が61センチである。三つの主枝が周囲に伸びていて、枝ぶりが健やかで優美である。
趵突泉公園の保存古木?名木の一覧表
| 番号 | 樹種 | 樹齢(年) | 胸徑 (センチ) | 樹高(メートル) | 場所 |
| B0-0448 | 円柏 | 120 | 31 | 15 | 趵突泉公園万竹園築山の北側 |
| B0-0468 | 円柏 | 110 | 30 | 15 | 趵突泉公園万竹園築山の北東側 |
| B0-0450 | 千頭柏 | 130 | 41 | 9 | 趵突泉公園万竹園西花園 |
| B0-0365 | 側柏 | 130 | 30 | 12 | 趵突泉公園万竹園西花園 |
| A0-0003 | 国槐 | 300 | 110 | 10 | 趵突泉公園三大殿の東側 |
| B0-0463 | 爬行卫矛 | 120 | 5.5 | 趵突泉公園万竹園内 | |
| B0-0467 | 千頭柏 | 120 | 8 | 趵突泉公園万竹園築山の北側 | |
| B0-0449 | 千頭柏 | 130 | 10 | 趵突泉公園万竹園築山の西側 | |
| B0-0447 | 千頭柏 | 120 | 9 | 趵突泉公園万竹園築山の西側 | |
| B0-0446 | 千頭柏 | 120 | 9.5 | 趵突泉公園万竹園築山の南側 | |
| B0-0444 | 千頭柏 | 120 | 11 | 趵突泉公園万竹園築山の東側 | |
| B0-0445 | 千頭柏 | 120 | 48 | 15 | 趵突泉公園万竹園築山の北側 |
| B0-0460 | ザクロ | 130 | 4.5 | 趵突泉公園万竹園ボケ院内 | |
| B0-0462 | 糸綿木 | 120 | 42 | 10.5 | 趵突泉公園万竹園白雲泉北岸 |
| B0-0399 | 油松 | 100 | 31 | 4 | 趵突泉公園滄園 |
| B0-0469 | 榔楡 | 130 | 12 | 趵突泉公園一大殿の西側 | |
| B0-0470 | 大葉女貞 | 100 | 8 | 趵突泉公園北のトイレの東側 五、主要な人文景観資源の概説 趵突泉を代表とする済南の泉水は独特な自然景観で、重要な地質遺跡、自然遺産でもある。済南の都市歴史変革、発展計画、人民生活、民俗民風などに繋がり、泉文化を代表とする様々な名所旧跡が形成され、特殊な地域文化の代表である。主要な人文景観資源を次の如く紹介しよう。 (一)泉水自然景観 趵突泉公園、五竜潭公園、環城公園は泉水に依存して建てられ、名泉が全部69か所もある。その中で、趵突泉、五竜潭、黒虎泉という三大泉群景観を集中的に体現している。主要な泉を次の如く紹介しよう。 趵突泉:趵突泉は趵突泉公園の濼源堂の前にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清代郝植恭の『七十二泉記』には、趵突泉が済南七十二泉の最高だという記載がある。趵突泉は濼水の源で、『春秋?桓公十八年』には「公及び齊侯は濼に於いて會う」という記載が残されている。古代では、「温泉」「滝流泉」「檻泉」などの別名があった。「趵突」の名称が最初に北宋の文学者である曾鞏の『斉州二堂記』に記された。趵突泉は、地下の三つの泉眼から泉が雷のような音を出しながら、同時に湧き出ている。北魏の郦道元は『水経注』で「湧く泉が上へ奮り、水が湧きて、車輪が如し」、元代の趙孟頫は「雲霧潤蒸華不住、波濤声震大明湖」(雲や霧のように潤い蒸して、水の花が止まらず、波の音が大きく、大明湖を震動させる)と詩を詠んで絶賛した。『趵突騰空』は歴城八景の一つとされていた。 曾鞏、蘇軾、元好問、張養浩、王守仁、李攀龍、王世禛、蒲松齢などの歴代の風雅の士が泉の美景に惹かれてそれを詠む佳作がたくさんある。 清代の康煕、乾隆帝は、詩を詠んだり、文字を記したり、石や碑に詩文を刻んだりしたことがある。泉の池の傍に観瀾亭、濼源堂、来鶴橋、蓬山旧跡などの観光スポットがある。水が清らかで甘味を持っているので、乾隆帝が泉の水を召し上がり、北京の玉泉の水よりも優れると言って、「天下第一泉」と称賛した。それゆえ、「趵突泉の水を飲まずに帰ると済南に来なかったに等しい」という説もある。現在の泉池は長方形を呈していて、長さが30メートル、幅が18メートル、高さが2.2メートル、溢水標高が27.01メートルで、温度が摂氏18度ぐらい保持し、日最大の湧出量が16.2万立方メートルに達する。2004年4月、済南の名泉研究会により、趵突泉が新七十二名泉の一つだ、トップだと認定された。 金線泉:金線泉は趵突泉の北東にある。泉池は長さが2メートル、幅が1メートル、深さが1.5メートルあり、石で岸が築かれ、彫刻が飾った石の欄干で囲まれている。1956年、公園の拡大工事で発見されたのである。水勢が盛んな時、水が池底の両側から湧き出て、水面で二つの水流が衝突し、一本の水の紋様を巻き起こし、光が照らすと、金色の光がきらめくように見える。その故に「金の線」と命名されたという。さらに西へ20メートルぐらい歩くと、老金線泉がある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。宋代呉嘗の『能改斎漫録』、王辟之の『渑水燕談録』にも金線泉についての描写がある。曾鞏は「玉甃常浮灝気鮮,金線不定路南泉」という詩を詠んで褒め称えた。残念ながら、金線の奇観が今ではもう亡くなっている。2004年4月、済南の名泉研究会により、金線泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 皇華泉:皇華泉は趵突泉の北東にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。泉の名称が『詩経?小雅?皇華』に出典を求められる。『毛詩小序』によると、君主が使臣を遣って作らせたので、皇華は使臣の指称となったそうである。晏璧は、『皇華泉』に、「金線池東湧碧泉,皇華使者耀斉川。聖恩浩荡寛如海,散作甘霖遍八埏。」と詠んだ。現在、泉池は長方形を呈していて、長さが6.3メートル、広さが4.1メートル、高さが2メートルである。2004年4月、済南の名泉研究会により、皇華泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 伏牛泉:伏牛泉は趵突泉の北東にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。現在、泉池は長方形を呈していて、長さが4.8メートル、幅が3.1メートル、高さが1.5メートルである。東晋の陶侃は牛の眠る所に父親を埋葬し、その後、出世ができ、赫々たる権勢を得たため、後世の人が牛の眠る所を福地と見なすのである。伏牛泉の名はそれに由来する。晏璧の詩には、「昔聞陶墓有牛眠,今見斉州溢井泉。千載歴山遺勝跡,秋風禾黍満虞田」の記述がある。2004年4月、済南の名泉研究会により、伏牛泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 柳絮泉:柳絮泉は趵突泉の北東にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。絶えず湧き出ている泉の泡が柳絮の舞うようなので、命名されたのである。現在、泉池は長さ4.8メートル、幅が3.1メートル、高さが1.5メートルである。晏璧の詩『柳絮泉』には「金線池辺楊柳青,泉分石窦暁冷冷。東風三月飘香絮,一夜随波化緑萍」と詠んでいる。李清照の故居がここにあったという。清代任宏遠の『柳絮泉訪李易安故宅詩』には、そういう記述もある。2004年4月、済南の名泉研究会により、柳絮泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 漱玉泉:漱玉泉は趵突泉公園内の李清照記念堂の前にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。漱玉泉の名は『世説新語?排調』の「漱石枕流」に出典が求められる。泉池は長さが4.8メートル、幅が3.1メートル、深さが2メートルである。泉水が池の底と壁から絶えず湧き出て、多量の泡になり、その泡が水面まで舞い上がり、静かな音をしながらまた散り広がってくる。水が南の壁を通過して溢れて、石作りの水潭に流れ込む。宋代の詞人である李清照氏は、ここの泉水を掬って身仕度をしたり、詩?詞を吟じたりしていたという。それ故、その詞集の題名も『漱玉詞』と決めたのである。2004年4月、済南の名泉研究会により、漱玉泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 馬走泉:馬走泉は趵突泉公園内の李清照記念堂の東側にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。北宋末年、金王朝に抵抗する将校である関勝が乗っている戦馬は主人の死で蹄で土地を掘り出すところ、泉ができたという。馬走泉はその伝説で世間に広く知られるようになる。泉池は自然石で築かれ、長さが12メートルで、幅が5メートルである。東側は築山に依存している。晏璧は『馬跑泉』で「馬蹄踏破迸飛泉,流出齐城浅水辺,八骏曾聞馳八極,百年幾見海成海」と称賛した。2004年4月、済南の名泉研究会により、馬走泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 無憂泉:無憂泉は趵突泉の南にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』、清朝郝植恭の『七十二泉記』にはいずれも記録が残されている。無憂泉の水を飲んだら、憂いを紛らわすことができるというので、「無憂泉」と命名されたのである。晏璧の詩が曰く:「檻泉西畔漱清流,他酌水能万斛愁。白叟黄童争撃壌,春来有事向東畴」。長い間、無憂泉は埋まっている状態だったが、1989年に修繕された。泉池は塘湾の形をしていて、面積が672平方メートルである。池が石で巧みに綴られ、水が弦月の形をする池から湧き出ている。2004年4月、済南の名泉研究会により、無憂泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 石湾泉:石湾泉は趵突泉公園内の白雪楼の前にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。池はもともと塞がっていたが、1997年に修繕された。巨石が泉池の岸に立っていて、水湾のような形なので、石湾泉と命名したのである。泉池は長さが10メートル、幅が10メートル、高さが1.5メートルで、不規則な形で呈している。晏璧の『石湾泉』が曰く:「石湾池接檻泉南,湧出清流味更甘。旋汲井花烹石鼎,鵲華秋浄暮煙涵。」2004年4月、済南の名泉研究会により、石湾泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 湛露泉:湛露泉は趵突泉公園内の白雪楼の前にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。長い間、無憂泉は埋まっている状態だったが、1997年に修繕された。泉池は長さが4メートル、幅が4メートル、高さが1.5メートルで、自然石で池が築かれ、不規則な形を呈している。水が朝の露のように澄み切っているところから、湛露泉と命名されたのである。晏璧の詩が曰く:「泉如湛露味甘香,入如三焦歯頬涼。通楽古園饶爽気,奄奄夜飲酔無妨。」2004年4月、済南の名泉研究会により、湛露泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 満井泉:満井泉は趵突泉の北にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。長い間、無憂泉は埋まっている状態だったが、1997年に修繕された。泉池は六角の井の形をしていて、高さが5メートルで、石で壁が築かれた。一年中泉水が絶えず湧き出て、井口まで溢れるので、満井泉と命名されたのである。晏璧の詩が曰く:「川流不息井泉盈,明秀亭前脈脈清。応是夜来春雨急,水高三尺小池平。」2004年4月、済南の名泉研究会により、満井泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 登州泉:登州泉は趵突泉の西にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。長い間、無憂泉は埋まっている状態だったが、1997年に修繕された。水脈が東海の海辺にある登州まで通るという伝説があるので、登州泉と命名されたのである。晏璧の詩が曰く:「文登一脈透譚城,澄澈全無蜃其腥。安得雪堂蘇学士,朗吟万竹濯清冷。」泉池は長方形をしていて、長さが3メートル、幅が2メートル、高さが4メートルである。池の中にはまた長方形の小さな池がある。泉水が小さな池から溢れて、周囲の壁沿いで滝のように外の池に流れ込む。2004年4月、済南の名泉研究会により、登州泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 杜康泉:杜康泉は趵突泉の北西にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。本来の名称は「北煮糠泉」であったが、下品だと思われるので、「杜康」と改めたのである。杜康は酒造りの始祖なので、泉水が清らかで透き通るので美味しいお酒が醸造できる意味から、改名したのであろう。晏璧の詩が曰く:「趵突西隅作石棚,泉名糟粕待煎烹。一掬可清無塵滓,何是当年玷濁名。」泉池は長さが2.4メートル、幅が2メートルで、自然石で岸が飾られ、南側に井の形をする泉に繋がっている。池の上には彩亭が建てられ、「杜康泉」という木製の横額が掛かっている。2004年4月、済南の名泉研究会により、杜康泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 望水泉:望水泉は趵突泉の西の万竹園内にある。金代の『名泉碑』、明代晏璧の『七十二泉詩』にはいずれも記録が残されている。泉池は長さが20メートル、幅が10メートル、高さが2.2メートルである。泉水が北へ流れながら渓になり、壁を通り、部屋を避け、橋や亭を回って流れていく。周りに険しい石が綴られ、竹木が蔭を落とし、優雅で奥ゆかしい雰囲気である。万竹園は明代で「通楽園」と呼ばれ、大学士の殷士儋によって建てられたのである。清代初期の有名な詩人である王苹が泉畔に住んだことがある。また、泉が金代の『名泉碑』に第24位にランキングされているので、王苹氏は自分の書斎を「二十四泉草堂」と称し、自分の詩集も『二十四泉草堂集』という題名をつけたのである。清代の詩人董雲は「閣老亭荒望水辺,赤霞山色落窓前,詩人酷愛王黄葉,占断西郊廿四泉」と詠んだ。2004年4月、済南の名泉研究会により、望水泉が新七十二名泉の一つだと認定された。 (二) 人文歴史景観 済南は泉で世間に広く知られ、泉はこの都市の魂だと言える。泉は都市の歴史?発展?沿革を担っていているだけでなく、都市の歴史や文化の現れでもある。済南の旧市街区にある趵突泉、五竜潭公園、環城公園には、名所旧跡が数多く、文化的雰囲気が濃厚である。そういう人文旧跡は自分なりの特色があり、名泉と相まって、済南市の悠久な歴史文化と泉文化の担い手となり、重要な文化的価値が認められる。 観瀾亭:本来は北宋熙寧年間の歴史学者である劉詔の庭園にある建物であった。「檻泉亭」と呼ばれ、それ以後倒壊した。明の天順5年、勅使の韦公と吴公が済南に来た時、泉のそばで亭を建て、「観瀾亭」と名づけた。出典は『孟子?尽心上』で、「観水有術、必観其瀾」という意味を取ったかもしれない。趵突泉の西側にあり、四面が開けたままで、升形が軒を支え、反り返った軒が重なり合い、上の屋根に鴟尾が綴られ、下の亭の中に石の腰掛が置かれている。亭の南、北の水にはそれぞれ「趵突泉」「第一泉」と刻まれた石碑が立てられている。西側の壁には「観瀾」と刻まれた碑がはめ込んでいる。濃厚な文化的雰囲気がたっぷり感じられる。 濼源堂:明代の建物で、1979年、市級文物保護単位と指定された。趵突泉の北側にある。北宋著名な文学者である曾鞏がここで二つの堂を建て、南の堂は川の「濼水」の源に近いことから、「濼源堂」と命名され、北の堂は歴山に向かい合っているから、「歴山堂」と呼ばれる。濼源堂は間口が三間の二階建てで、南向きで、同一の中軸線の上で建てられ、大きい明清時代の建物である。一番南にある一大殿は、二階建てで、反り返った軒、赤漆塗りの木の丸柱、黄色い瑠璃瓦が敷かれ、輝かしく眩しい、壮観なように感じられる。中間の二大殿は、三間の二階建てで、升形が軒を支え、軒が反り返ったようである。屋根の両端には正吻で(鯱、呑脊獣)綴られ、降棟にも各種の獣の彫り物がある。一番北にある三大殿は、三間の平屋建てで、壁が赤く、屋根に青い瑠璃瓦が敷かれ、軒が突き出ていて、古風で飾り気のないように感じられる。 万竹園:1986年、省級文物保護単位と指定された。1993年、『中国伝統的民家建築集』に収録された。万竹園は元の時代に建て始め、園内にある竹林で命名されたのである。明の隆慶4年(1570)、内閣大学士、歴城の人殷士儋がここに住むようになり、万竹園を「通楽園」と改称した。「川上精舎」とも呼ばれる。清代の康煕年間、済南の詩人王苹がこの庭園を購入して住むようになり、「二十四泉草堂」と改称した。民国初期、北洋軍閥、山東省の督軍を務めた張懐芝によって私人花園として占用された。万竹園は趵突泉公園の西部にあり、総敷地面積が約1.2万平方メートルで、南方風の庭園?北京王府?済南の四合院などの風格を兼ねた古風的な庭園である。園内には中庭が三つ、庭付き住宅が13か所、部屋が186間ある。空間の構図では対比の効果を取り立てて、大の中に小あり、開放の空間もあれば閉鎖の空間もあり、高いものもあれば低いものもあり、明もあれば暗もあるような、多彩な空間構造に組み立てられている。それぞれの空間もまたお互いに混じ合って、借景と対景の手法を運用して、空間のレイヤー感覚を増そうとする。少し移動すると、景観が変化してくる。亭が四つ、橋が五つ、花園が一か所あり、動と静が織りなし重なり合い、水が曲りくねって流れているところがいい。精美なる石彫?木彫?レンガの彫刻は万竹園建築上の「三絶」と呼ばれる。 滄園:本来は明代の詩人李攀龍が読書するところで、民族特色に富んだ庭園式の建築である。趵突泉公園の東南部にある。黒いレンガに青い瓦、そして、白く塗られた壁で、素朴な建築である。敷地面積が2500平方メートルである。滄園の建築は南北に対称的な構造で、回廊が周りくねって、回廊沿いにスラリとした竹が風に揺れている。松がまっすぐでみずみずしく、蝋梅が満開になる。雪が降る時、松?竹?梅には自分なりの風情が見られ、まるで「歳寒三友」という絵巻のような風景で人々を引いてくる。 李清照記念堂と易安旧居 郭沫若先生の考証では、李清照旧居は大明湖の畔、趵突泉辺、垂れ柳の奥にあるという。その記載により、1959年清朝末期の丁宝禎祠の旧跡で李清照記念堂が建築されたのである。1980年の改建、1999年の増築を経て、今の規模となった。今の総面積が4000余り平方メートルで、典型的な宋代の建築である。展示される内容が豊富で、図?文?像?書?画など異なる角度から李清照の素晴らしい功績と数奇な一生を如実に表した。 李苦禅記念館 1986年、当代有名な花鳥を対象とする写意画の大家である李苦禅の記念館が趵突泉公園の万竹園内に設置された。展示室が18室あり、総建築面積が3752平方メートルある。李苦禅氏の書画作品が400数件陳列されている。その中で、「松鷹図」「紅梅花怒放」などは、李苦禅氏の晩年の逸品である。「至聖無域沢天下,盛徳有範垂人間」の対聯は李苦禅氏の最高傑作と言われる。その他、館内には、李苦禅氏が生前収蔵した古書画や写真、手紙などが珍蔵されている。 王雪涛記念館 1987年、当代有名な花鳥を対象とする写意画の大家である王雪涛の記念館が趵突泉公園の滄園内に設置された。「無陋山荘」「夢月堂」「藕華楼」という三つの展示室があり、総建築面積が755.6平方メートルである。今、王雪涛氏の遺作、収蔵品及び生前使った絵の具などが212件陳列されている。 「五三」記念園 1928年、日本帝国主義が済南で引き起こした「五三」惨事を記念するために建てられたのである。山東省愛国主義の教育基地で、愛国主義教育の機能を担っている。「五三」記念園は公園の北部にあり、総敷地面積が2600平方メートルである。「五三」亭、「五三」記念館、入口華表、警世鐘台からなっている。「五三」記念園は総建築面積が307平方メートルである。二階建でで、一階は展示区で、堂内では蔡公時烈士の銅像や文字、写真などの資料が陳列されている。二階では、「五三」惨事にかかわる実物や資料が陳列されている。 白雪楼:明代の万歴年間、山東右布政史を務めた葉夢熊が「後七子」の一人である李攀竜を記念するために、「白雪楼」が建てられたのである。また、万歴四十二年、山東巡塩使を務めた毕懋康がここで「歴山書院」を作った。清代の康煕年間、白雪書院と改名した。その後、倒壊してしまった。清代の順治11年、山東布政史を務めた張縉彦が再建した。今の白雪楼は1996年に再建されたのである。白雪楼は趵突泉の東南にあり、間口が五間の二階建てで、前は軒が突き出ていて、中では障子で空間を区切っている。周りは泉に囲まれていて、さらさらと静かに流れている泉の音が聞こえてくる。二階では、周りの清流を楽しむことができ、南の連なる山々を眺めることもでき、風雅の趣がある。 天尺亭:趵突泉の地下水位の観測点で、三角亭構造である。観光客や市民に済南の泉の水位や泉の知識を分かりやすく理解してくれるように、三面の電子スクリーンで済南の泉の成因を図示した。天尺亭は2004年9月に工事が完成された。中は盆で、外は池である。中は赤、外は青で、穏やかなイメージが与える。外の勾欄には「二龍戯珠」の図案が30個彫刻され、内壁には竜頭が9個が突き出ている。色とりどりの光と互いに照り映えて、水が煙霧のような水気になり、夢のような美しさである。 (三)伝統的な文化活動 何千年にわたる名泉文化は、済南の古い歴史民俗文化を伝承している。趵突泉元宵節燈籠祭、曲山芸海、望鶴品茗、四海燈謎などの民間の文化活動は、長い歴史を持ち、民俗的特色が濃く、文化伝承の価値が高い。 趵突泉燈籠祭は長い歴史を持っている。唐玄宗が旧暦の正月十五日を元宵節と規定された以来、その日の夜にランタンを灯すのが習慣になってきたという。1965年第一回の公園燈籠祭が行われた以来、毎年引き続き行い、江北地方で大きな燈籠祭の一つとなった。趵突泉燈籠祭は、テーマが鮮明で、独自の特色があり、彩燈芸術と民俗文化を一体化させた。毎年の正月一日から始まり、一ヶ月続いている。趵突泉燈籠祭は「泉城」の済南市の文化ブラント、ウインター?ツーリングの重要な部分となる。民間では、「趵突泉の彩燈を楽しまずには、年越しにはならない」という言い方がある。 「灯謎」は燈籠祭に源を発する。1994年、「趵突の春」をテーマとする第一回全国灯謎愛好者コンピティションが行われた以来、今まで毎年行われている。毎年、春節の間で、李清照記念堂のつなぎ廊下には、全国20余りの省、市、自治区及びタイ、シンガポールなど海外からの灯謎愛好者が作った灯謎がかかっている。活動はだいたい旧暦の正月五日から正月十三日までである。事情によって延期することもあれば、早めに行うこともある。「趵突の春」の全国灯謎当てコンピティションは中国でも海外でも知名度が高い。省内外の灯謎愛好者がよくここへ来て灯謎を当てて遊ぶ。毎年平均で10万人もの参加者がある。 趵突泉での菊鑑賞も長い歴史を持っている。宋代では、有名な詞人李清照が菊を楽しむ記載が残されていた。20世紀70年代末から、菊の展覧会と菊文化活動が始まり、其の後、伝統となり、毎年の10月末から11月末まで行う。初秋に、泉城最高の菊が趵突泉公園に集まり、さまざまな菊の花が咲き乱れ、美しさを競い合っている。さまざまな造型には、時代の特色や強烈な生活の息吹が立ち込めている。色とりどりの菊が咲き乱れて、新時代の息吹と特色を現れる。菊の展示棚では、菊?山?石?書画が互いに照り映え輝きを増し、素晴らしい芸術作品展示会みたいである。 趵突泉の「曲山芸海」という民間文化活動は20世紀80年代後期から始まったのである。京劇?呂劇?柳子劇など多くの地方劇、優れた俳優が趵突泉の畔に集まり、楽器を奏きながら出演する。白雪楼大舞台では、京劇の出演が多く、遠くから京劇の音が響いてくる。週末や休日になると、白雪大舞台?趵突泉の畔?万竹の廊下?藤棚の下など、どの場所でも出演でき、プロにしろ、アマチュアにしろ、一斉に参加する。京劇?呂劇?曲芸?柳子劇などが大いに異彩を放っている。 趵突泉の茶文化は歴史が長い。趵突泉の水は清冽で芳醇な味わいがある。その水で点てたお茶は、色がいいし、味も芳醇で、茶碗の上辺ぎりぎりながらこぼれることはないので、「趵突一絶」と言われている。北宋の著名な文学者である曾鞏が「滋栄冬茹温常早,潤沢春茶味更真」と詩を詠んで称賛した。乾隆帝が江南を視察する途中に訪ねにいらっしゃったとき、趵突泉の水を召し上がり、趵突泉を「天下第一泉」と絶賛した。趵突泉の水で点てたお茶は、色がいいし、味も芳醇なので、「趵突泉の水を飲まずには、済南の旅にならない」という言い方がある。望鶴亭茶屋、北門茶屋、「観泉品茶」夜の広場、濼苑茶文化街など、いろいろな茶社がある。今年、続々と趵突泉、黒虎泉などの場所で済南独特の特色がある「大碗茶」が作られるので、市民と観光客のご賞味をお楽しみください。 |
